筑波大学附属病院国際医療センター(高度救命救急センター併任)の鈴木貴明先生は、現在、臨床業務と並行して、ラオスの交通事故による死傷者を減らすための病院前救急活動支援システムの構築に関するご活動をされています。本稿では、どのようなきっかけで発展途上国の国際開発に興味を持ったのかなど、背景をお伺いします。

Interview:鈴木 貴明

筑波大学附属病院高度救命救急センター/国際医療センター講師
2011年筑波大学医学専門群卒業。救急科専門医。卒後6年間は国立国際医療研究センター病院救命救急センターにて救急診療、教育、研究に従事。同センターにおいては、東南アジア、アフリカ諸国における救急医療人材の育成、救急医療体制の構築支援を中心とした開発業務にも参画。2017年から筑波大学大学院に進学、アジア圏の後発開発途上国における救急医療体制構築に関する研究に取り組む。
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発展途上国での国際協力との出会い

ーなぜ、開発途上国での国際貢献に興味をもったきっかけを教えてください。
 そもそも、医学部に入った理由は、中学生の時にテニス仲間が練習中に心臓突然死するといったことに遭遇して、若くて元気な人が突然亡くなるという衝撃的なことは防ぐことができるのか、ということをライフワークにしたいと思っていたからです。ですので、医学部に入った当初は、循環器内科に関心を抱いていて、まだ救急や国際協力という形で進むとは思っていませんでした。ただ大学で学年が上がるにつれて、突然の予期せぬ死は心臓だけが原因ではないし、「大切な人が突然いなくなってしまう」ことに共通して関われる分野が救急医療、救命医療だなと思うようになりました。
 国際協力の接点が生まれたのは、家族の影響もありました。私の家族が、国際協力・国際開発という舞台に身を置いていたこともあり、国際開発×経済や、国際開発×教育などに触れるチャンスがありました。大学6年生の時に「国際開発×医療なら何ができるのかな」と思い、ミャンマーの無医村地区で医療ボランティアに行きました。非常に心打たれるものはあり、将来は国際開発×医療に近いところに身を置きたいと思いました。一方で、「救急医療」と「国際開発」の接点のイメージがしづらいと思いました。救急分野の国際協力といえば、国境なき医師団(MSF)、赤十字国際委員会(ICRC)、JICA国際緊急援助隊(JDR)などの、緊急時に直接的な医療サービスを提供することは非常にイメージが湧きやすいのですが、平時の国際開発として途上国の基盤を整えるものは、学生時代に知る機会がありませんでした。
 そこで大学卒業後は救急にフォーカスを置いた研修を行えて、国際協力もやっている国立国際医療研究センター(以後、NCGM)を希望し、初期研修・後期研修・フェローという形で6年間在籍することになりました。

ーそこから「救急医療×国際開発」という道を模索していったのでしょうか。
 卒業後も、しばらくは救急と国際開発の接点はまだ生まれていなかったのですが、何か個人でも動きたいなとは思っていましたので、NCGMにおいて国際協力に関心がある医師看護師で集まって情報交換したり、国際医療協力局という専門部署に何度も足を運んだりしました。
 またNCGMは、後期研修の救急コースの中に、売りとして国際協力をできる期間が3ヶ月あります。その3ヶ月間でケニアとラオスに行きました。ケニアは、ハーバード大学・マサチューセッツ総合病院のInternational Emargency Medicine(IEM) Fellowshipのvisiting fellowとして参加し、ラオスは当時NCGMの救命救急センターがリードしていたプロジェクトに参画しました。ですので、ケニアでは「米国主導のプロジェクトでアフリカに行く」という経験と、ラオスでは「日本主導のプロジェクトでアジアに行く」という経験ができたので、双方を比較しながら俯瞰して見れるよい経験でした。

米国の支援と日本の支援

ーケニアでの経験について教えてください。
 当時、アフリカの多くの国・地域においては、まだ救急医学とか救急医療という分野自体が確立していない状況でした。そこで、ハーバード大学・マサチューセッツ総合病院で、ちょうど東アフリカ初の救急医養成プログラムを始めるタイミングでしたので、それに2ヶ月程参加しました。そのプログラムは、本来、米国の救急医学レジデンシーを修了した人しか行けないプログラムだったので、広く門戸が開かれていた訳ではありませんでした。たまたま姉がケニアで国際協力の活動をしていたときの繋がりで、先生を紹介してもらうことができ、スカイプでミーティングして計画立てて行けることになりました。活動していたのは救急医・産婦人科医・総合診療科医・小児科医など、皆同じくらいの20代後半から30代前半の方たちで皆で一軒家を借りて、そこから長い時間歩いて地方の病院に毎日通い活動していました。米国だと4年制大学を卒業してから医学部に進学する方がメインなので、医学部進学前のボランティア活動として、インターンの学生も参加してました。

米国の大学における救急医療×国際開発
 米国の大学の大抵の医学部では、救急医学のサブスペシャリティでIEMがあります。まだ救急医学が未成熟な国・地域において、いかに救急医学を学問として確立させるか、また救急医療を浸透させていくかを目指しています。IEM Fellowshipという研修は、50を超えるプログラムがあるほどです。fellowshipの中では、一定期間途上国(主にアフリカや中南米)における人材育成やシステム構築に励み、今後IEM専門家として活動するために必須の公衆衛生学修士(MPH)の取得が可能であることも多いです。ですので、米国では専門が国際救急医療だということが、そんなに珍しい話ではなくて、比較的人気があります。これは、アジアでは皆無で、ヨーロッパでもほとんどありません。米国は財政的な支援も入っているのもありますが、「途上国を含んだ世界全体に目を向けて国際協力していこう」という文化が根付いています。それが、医学にも、救急にも波及しているように感じます。

ーラオスでの経験について教えてください。
 ケニアの後、ラオスに行きました。前述の2010年から2015年までやっていたNCGM 救命救急センターがリードしていたプロジェクトに参画した形です。交通事故などによる外傷死亡や怪我を減らすために、まずは人材育成や外傷患者データが必要ですので、教育プログラムや外傷データバンクを作るといったプロジェクトです。当時、緊急の医療支援を除くと、日本の救急科で途上国開発をやっている数少ないプロジェクトだったんですが、結果としては、現地への浸透・社会実装という点で課題が残りました。 この経験で、米国と日本の国際救急分野における差を見ることもできました。米国はガッツリ人を入れてローカルベースでどのように現地で実装していくか、現地の人たちとお互いに影響、学び教え合いながらやって行くというところがありました。一方、日本の場合だと、まだ、その分野が未確立であることもあり、現地のニーズを汲んだ活動、ローカルベースの活動には壁が高く、その後も長く残る仕組みづくりや実装を図ることは難しいと感じました。ただ、日本のこの分野の先駆け的な第1世代の先生方は、まずは海外に出て、日本の医療を知ってもらってネッワーク作りをしたこと、日本が進出しやすい土壌を築いたことが大きな役割・功績だったと感じています。そのネットワークや土壌がなければ自分も外に出ていく経験は出来なかった訳ですから。一方、それを引き継いだ「第2世代である日本人救急医は何をしないといけないか?」と考えると、実際に現地に入って、ローカルニーズを汲んだ形で実装を図り、末永く波及する成果をどれだけ現地に落としていけるかということだと思うようになりました。

世界中、どこでも誰でもが救急医療にアクセスできる社会を目指して

ーご自身の目標設定はそこから出来上がってきたのでしょうか?
 ケニアとラオスの経験を経て、段々と「救急×国際」でやることが見えてきました。途上国へとはじめて足を運ぶ前は、途上国の住む人々が、自分たちの住んでいる国・地域が医療的に脆弱であることを知っていて、事故などで医療の力が及ばず亡くなってしまうことはある程度仕方がない、といった半ば諦め、また容認といった価値観が共有されているのではないかとイメージしてました。だけど、そんなことは全くなくて、やはり皆、突然の死はどんな場所に住んでいようとも衝撃的なイベントであって、非常に悲しみに暮れていた訳ですね。米国とかだとvulnerableと言いますが、そのような脆弱な状況に暮らす人たちも、私たちと当然に同じような価値観を共有していて、突然にして誰か大切な人がいなくなることは、先進国とか途上国とか暮らす場所、人を選ばず、大きくもまた複雑な悲しみを生み出すトリガーになるんだと肌で理解しました。
 でも、そこに対してはアジア全体が満足にコミットできていません。日本人は、非常に丁寧で気遣いができて、フレンドリーで強圧的でなくてパターナリズム的な感じでもない医療展開がされている点、さらにシステム面でも非常に優れている点がありますので、現地で、日本がリーダーシップを持って進めていける可能性が十分にあると思うようになりました。

ー日本人が支援するならやりやすいのは、アジアというのはあるのでしょうか?

ラオスでの交通事故の様子。
現地ボランティアが救急隊をしている。(詳細は後編で)

 それはあると思いますね。やはり日本人にとってのアジアは相性がいいと感じます。
 ケニアとラオスの経験を比較して思うのは、アフリカはvulnerableの代名詞ということで、米国がもの凄く沢山の投資をしているので、語学面を踏まえても、あまり日本人の出る幕がないのかなと感じます。あとは、正直なところ、顔も文化も似ていないので、日本人が1人で行くと、疎外感を感じてしまうこともなくはないのかなと。 
 ケニアからラオスへと直接飛びましたが、ラオスはみんな米食べるし、顔も近いし、柔らかくて穏やかだし、溶け込みやすいと感じました。あとは、よく言われる話で、アジアの国々では日本の輸出産業でプロダクトの質の良さとか丁寧さとかは認知されているし、他分野の国際協力で、強圧的ではなく対話ベースで進められてきた実績もあります。日本が入って行きやすい布石が既に打たれています。さらにアジア、特にASEANの地域は医学の分野においては日本をモデルケースの一つとして見ています。

 ですので、やはりアジアの皆で何か一つ、特にASEANを盛り上げてくというのが、大事なのだと思います。逆に言うと欧米がアフリカほどにASEANへは入ってきていないので、国際救急分野においては、日本・韓国・台湾・シンガポール、それに最近ではマレーシア、タイあたりがASEANを盛り上げていくことが大切なのかなと思います。

ーその後、ご自身でラオスで「交通事故から住民の命を守る救命救急活動支援プロジェクト」を立ち上げられる訳ですが、それまでの苦労などありましたら教えてください。
 私個人としては、2015年にラオスを去ってからも、中長期的にASEAN諸国をはじめとした開発途上国における救急医療体制の構築に注力したいという思いがありましたが、現実的に動くには、国際開発活動をできる時間の確保など環境整備、また本格的な開発に向けて必要な知識の習得など様々な準備する必要がありました。
 その1つとして、卒後7年目には、知識が足りないと思っていた国際保健・公衆衛生学に関する見識を深めるべく、母校である筑波大学の公衆衛生学の博士課程に進学しました。また同大学の国際医療センターにおける医療の国際展開に通ずる形で国際救急分野の活動を仕事として取り組み、さらに救急医療に関する自分自身の技能・スキルをアップデートする為にも臨床を並行して行っています。
 あとは、こうした海外活動に関して、肝心な活動資金の調達ですが、実際には結構苦労しています。特に救急医療や外傷といった分野が、国際開発や国際保健の分野においても非常に新しい領域でもあることもあり、かなりニッチな分野です。どこかの事業に乗っかるなんてことも殆どできません。となると自ら事業を生み出していく必要があるのですが、それもまた地道な作業の積み重ねでして。
 2017年以降は厚生労働省管轄の医療技術等国際展開推進事業の案件を作ったり、専門家として主にASEANから来日した研修生の指導や現地に行って人材育成し、また大学の国際医療センター業務としては、アジア以外にも、アフリカや中南米の国々からも研修生を受け入れてます。オンラインでの交流や国際貢献をどこまで出来るかも最近では鍵になってますね。2019年には、それまでの国際協力の実績が評価され、運よくJICA草の根技術協力事業が採択されました。なので、いまはそのプロジェクトを走らせることに力を注いでいます。

ーありがとうございます。
次回は、現在行われているJICA草の根技術協力事業
交通事故から住民の命を守る救命救急活動支援プロジェクト」ついてお伺いします。

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